(not) here, (not) now

実在作品のネタバレ含む//日記のような小説のような日記のような

ep3_2018_6_18_スタンフォード監獄実験と『es[エス]』について

スタンフォード監獄実験が実施されたのは1971年。
世界初の宇宙ステーションとなったソ連サリュート1号が打ち上げられ、アメリカのフロリダでディズニーワールドが開園された年。
大阪万博が開催され、ソルジェニーツィン(Солженицын)ノーベル文学賞受賞が発表され、三島由紀夫が自決した1970年の1年後であり、あさま山荘事件が発生し、川端康成のガス自殺と沖縄返還、そしてウォーターゲート事件が発生した1972年の1年前。

それはわたしが生まれる18年前のことであり、みさきが生まれる14年前のことだ。
14年というと、生まれた子供が中学2年になるくらいの年数で、18年というと、その中学2年の子供が32歳になる年数。
いまから14年前の2004年には自衛隊のイラク派遣が始まり、Facebookが登場し、スマトラ島沖地震が発生していて、その18年前の1986年にはアメリカのチャレンジャー号の爆発事故が、そしてチェルノブイリ原子力発電所でも事故が発生した。

スタンフォード監獄実験が実施されたのは1971年。
実験が行われた1971年からいままでに流れた年月は、数字でいうと47年、約半世紀。
そんな長い年月が経ってからようやく、その実験に虚偽が含まれていたことが明るみに出た(日本でもTogetter一部メディアでは紹介されてるものの、五大紙ではいまだ報じられていない)。
実験について以前より疑いの目が向けられることもあったとはいえ、こうしてはっきりとした事実が提示されると、やっぱりちょっとぐらぐらする。

けれど、その衝撃は、5日前の石井辰典氏のツイートを見てから一晩遅れてわたしに訪れた。
そしてその遅延は、ニュースの衝撃とは異なる落胆をわたしにもたらした。
最初に当該ツイートを見たときにわたしが強く感じたのは、新事実のグロテスクさよりも、そんなグロテスクな側面があらわになることはわたしたちの社会のごくありふれた一コマであるという現実認識だった。
虚偽公文書作成容疑で告発された前国税庁長官たちは不起訴とされ、そのこと自体が日常の波に淡々と飲みこまれていってしまう。
わたしたちは、「ポピュリズムフェイクニュースの時代に生きている」*1。「社会のポストモダン化が徹底した時代」に生きている*2。素朴すぎる本音と半自動的で猫かぶり的な忘却の時代に生きている。
そんな時代の感覚にわたしの内面が撹乱され、麻痺しはじめていることに、わたしは落胆した。
今回のスキャンダルの内容や新事実の露呈それ自体が現代的な現象であるということが言いたいわけではない。そんなわけはない。そういう話ではなく、今回のスキャンダルを取るに足らない日常の風景の一コマとして無感動的に受け流してしまいそうになるくらい、いまの時代の感覚に犯された目になっていたということに気づいて、わたしは肩を落とした。

この週末、何年かぶりにオリヴァー・ヒルシュビーゲル(Oliver Hirschbiegel)es[エス](Das Experiment)(2001)を観た。
史実やさまざまな現象をベースにした物語に触れるとき、わたしたちは現実と虚構のあいだで揺れ動く。
これってほんとに本当にあったできごとなの? こんなことが実際に起っていたなんて。ここまでは本当だろうけど、ここからはきっとフィクションだよね。え、ここは事実なの? 事実は小説よりも奇なり。こんなことが現代社会で起こっていたなんて。すごい。怖い。ひどい。凄惨。でも観たい。だからこそ観たい。そもそも現実こそがフィクションなのでは……。
何度『es[エス]』を観ても浮き上がってきた、波に揺られるようなそうした感覚を、今回ばかりは覚えることはなかった。
きっと、今後もないと思った。
そして、悔しさが残った。
それが何に対しての感情なのかいまだによくわからないのだけれど……。

*1:東浩紀「ゲンロンの未来――創業八周年に寄せて」、東浩紀編『ゲンロンβ24』ゲンロン、2018年

*2:東浩紀(聞き手=坂上秋成)「哲学的態度=観光客の態度」週刊読書人ウェブ、2018年6月18日閲覧

ep2_2018_5_31_オープンワールドゲームとアメリカのドラマに流れる時間について

ダン・フォーゲルマンDan Fogelman)のドラマ『THIS IS US 36歳、これから(THIS IS US』(2016-)シーズン1第5話「スーパーボウルの夜(The Game Plan)」にて、ケヴィン・ピアソン(Kevin Pearson)は自分が書いた1枚の絵を見せ、やがて来る祖父の死への恐怖に怯える姪たちに人の生について語った
その絵は、役者であるケヴィンが役づくりのために書いているもので、人生がテーマとなっている。
紙にはあるとき色=命が現れ、それぞれの色はあらゆる方向にずっと伸びていく。
そうしてその絵は永遠に描き加えられていき、生まれる前の人も、死んだ人すらもそのなかでは存在している。
相互に色を重ね合っていき、最終的にはひとつの色になる。
だから「あなた」も「わたし」も「彼ら」もなく、「みんな」がいるだけだとケヴィンは言う。

And this sloppy wild, colorful, magical thing that has no beginning, it has no end this right here I think it's us.
(そしてこのごちゃごちゃでワイルドでカラフルですてきなものには、始まりも終わりもないんだ。このなかにみんながいる)*1

その、複数の色の線をぐちゃぐちゃっと重ねていっただけの1枚は、たしかにいまを生きるわたしたちの生を抽象的かつ感覚的につかんでいる1枚に見えた。
アントワーヌ・ロカンタン(Antoine Roquentin)だったら吐き気をもよおしてしまうかもしれない。
あるいは、全くといっていいほど似ていないけれど、浅田彰が『構造と力』(1983)で描いたポストモダンリゾーム)のイメージ図をわたしに思い起こさせたりもした。

だけど何よりそれは、アメリカドラマの思想のある一面をもっとも簡潔にイメージ化した絵だと感じた。
きっと、いくつかのアメリカドラマを適当に選び、それぞれの作品のキャラクター・アークをより具体的に、つまりより現実的に素描していくと、多くの作品におけるその軌跡は最終的にはこの絵になる。
優れた群像劇は、1秒だって無駄にしたくはないとばかりにストーリーとキャラクターの掘り下げを並行してやってのける。
"It's us."における"us"とは、わたしたち視聴者のことだけではなく、アメリカドラマのことでもある。
まさかそんなケヴィンの絵を、雨が乾ききっていない側溝に散乱しているカップ焼きそばを見て思い出すとは思わなかったけど。

[2カ月もたっちゃったけど、ようやく『ゲンロンβ』の第23号を読んだよ。]

iPhoneの画面にみさきからのメッセージが表示され、わたしの頬は自然と緩んだ。
みんなが同じ時間帯に学校や会社へと向かうこの朝の異様な空気のなか、みさきのメッセージだけが色づいて感じられた。
できれば24号と25号も続けてすぐにでも読んでほしかったけれど、それは言わない。
わたしはかつてみさきの首筋に残っていた薄桃色のぼんやりとした線を思い出し、こうして日常的なコミュニケーションを難なく交わせるようになっただけでもいまはじゅうぶんだとあらためて思った。

それに、いよいよ一般発売目前の『ゲンロン8 ゲームの時代』(2018)に向けてテンションを上げていくタイミングのつかみ方としては、むしろ配信されてすぐに読んだわたしよりもうまいのかもしれない。ちょっとうらやましい。

井上明人黒瀬陽平+さやわか+東浩紀による座談会「メディアミックスからパチンコへ――日本ゲーム盛衰史1991-2018」冒頭部分で、井上明人によって『ドラクエ』(1986)の誕生や『FFIV』(1991)における『週刊少年ジャンプ』の功績が指摘されているけれど、そもそも『ドラクエ』のカウンターとして誕生した『ファイナルファンタジー』(1987)の起源においては、80年代における朝日ソノラマ早川書房――すなわち『ジャンプ』よりも設定されている対象年齢が高い活字媒体――における天野喜孝の存在が大きいから、JRPGが「出版の想像力」に支えられているという視点はとってもおもしろい。
日本にいるとあまりにもその環境に慣れてしまっているせいか、普段は特段意識もしないけれど。]

ゲームデザインやシナリオから現在における欧米での受容状況まで、あらゆる点でドラクエとFFはいまなお対照的だけれど、乱暴に言えばそれはなにより鳥山明天野喜孝の差異――「ポップ/リアル」の差異――が起源なのかもしれない。はんぶんはお酒の席の冗談みたいなものだけれど。

7月7日に発売される週刊少年ジャンプ創刊50周年記念バージョンのミニファミコンには『ドラゴンクエスト』が収録されているけれど、それなんかも象徴的だね。]

改札を抜けてすぐ、わたしは時間を確認した。始業まであと18分。
会社の最寄り駅から自分の席に着くまで約15分だから、遅刻ギリギリだ。
それでも、わたしは少しでもみさきと言葉を重ねようと歩きながら必死にタップした。
みさきもいまは調子がいいのか、返事がすぐに画面に表示される。

[たとえば、天野喜孝の代表作の一つである菊地秀行の『吸血鬼ハンターD』(1983)なんかはいわゆる「伝奇もの」だけど、このジャンルは出版の想像力を経由したノベルゲームの想像力をさらに経由してゼロ年代に「新伝綺」として一時期復活してたりする。]

わたしも急いで指を動かす。

[それと、井上明人鈴木裕のことを「ゲームの世界のなかにいかに現実を実装するかにずっと取り組んできたひと」*2と形容した上で、鈴木裕の代表作『シェンムー』(1999)について語ってたところが気になってて]

20秒もたたないうちに、わたしが言及しているまさにその箇所をみさきがコピペしてきてくれた。

[「『シェンムー』は八六年の横須賀をそのまま再現する試みです。天気が時間に応じて変わったりする。街にいるひとも毎回ちがうことをしゃべる。現実を作りたいという欲望がものすごくわかりやすく出ている」*3
[これこれ、この解釈。『シェンムー』はもとより、オープンワールドゲーム一般がこの「現実を作りたい」という欲望に駆られていることから思ったことがあって]
時間を確認。まだだいじょうぶそうだ。

――どうしたの?

わたしからの最初のコールが鳴りおわる前にみさきの声が聞こえてきた。まだ眠そうだった。
わたしが家を出たときにはまだ寝ていたから、起きてすぐに読んでメッセージを送ってくれたのかもしれない。
「ごめんごめん、話したいことがいっぱいあって、メッセージじゃもどかしくて。というか時間が足りなくて。それでね、わたしはこの『シェンムー』の話を読んで、海外ドラマのことを思い出したわけですよ」
行き交う人たちにみさきと話しているわたしの声が聞かれるとふたりの会話を邪魔されているような気分になりそうで、わたしは声量を落としつつもなるべく明快に声を出すようにした。

ゲンロンカフェで去年開催された黒瀬陽平と渡邉大輔の対談イベント「日本映画と海外ドラマ、いま、どちらを見るべきなのか」では、イベント開催前に両者がイントロダクションとなる文章を寄せていて、黒瀬の文章では次のような言葉が語られていた。

乱暴を承知で言えば、(主にアメリカの)海外ドラマは「現実を映す」ということに対して病的なまでに執着している。美術で言うところの「表象 representation」というやつだ。*4

 アメリカのドラマは、9.11ホームグロウンテロから銃乱射やトランプ問題まで、事態が複雑であるがゆえに容易には物語化できないさまざまな「この現実」を描くことに挑戦している。

――一緒に観たの覚えてるよ。配信内容も。
「もちろん、ここで黒瀬が言おうとしていることと、井上の『シェンムー』に対する指摘とでは、現実という言葉が指しているものが違うけど」
前者の「現実」とは、「さまざまな場面で立ち上がっているねじれて入り組んで複雑で困難な現実」を指している、とわたしは思っている。
アメリカのドラマはその表象に挑戦しており、イベントでは黒瀬はそれを、アメリカ的な洗練された風刺と対比させたうえで「静かなリアリズム」と呼んでいた。

鋭い風刺とかユーモア、コメディとは異なる静かなリアリズムというか、やっぱ、相手を完全に馬鹿にするものとして攻撃したり笑うっていう、ユーモアで対象化するのではない、いま起こっている複雑な現実をいかに正確に見つめるかっていうような、静かなリアリズムのほうが、いま起こってることとしては興味深い。*5

 それに対して、井上が言っているのは「現実を規定している条件(というか、わたしたちが、オープンワールド以前のゲームにはなくけれども現実にはあると思っている自然の摂理のようなもの?)」だと思うけど、わたしは、まさにその点において海外ドラマとオープンワールドゲームは似ていると思うのだ。
「別の言い方をすると、「静かなリアリズム」を必ずしも描いていない海外ドラマにおいても、その点は表出しているように見える」
みさきの静かな相づちが聞こえた。
会社まであと12分。
最後まで話せるかわからないけど、ちゃんと話そうと思って後回しにしたせいで、結局最後まで話せなかったということにはしたくなかった。それだったら途中まででもいいから少しでも話しておきたい。

「じゃあそれはなにかってことなんだけど、ガイドラインとして東浩紀大山顕によるショッピングモール/テーマパーク論を導入してみたい」
――テーマパークといえば、去年くらいに、Jerry Chuの「ゲームを知る掘る語る」でドラマ版の『ウエストワールド(Westworld)』(2016-)を紹介するとき、オープンワールドとテーマパークの関係から話を始めていたね。

そう。そして、そこでは2つの間に共通点があるとしていた。

テーマパークの広大な敷地には,さまざまなエンターテイメントが存在する。劇場で映像を鑑賞して,ファンタジーに浸るのもよし。ローラーコースターやシューティングゲームで体感的な刺激を求めるのもよし。園内を散策して写真を撮るのもよし。テーマパークには遊び切れないほどのアトラクションが用意され,多彩な楽しみ方がある。

 オープンワールド型ゲームでは,さまざまなプレイスタイルが許容される。広大なゲーム世界には,多数のミッションが隠されており,ストーリーを進めるためにメインクエストを追うか。それはさておき,サブクエストをコンプリートしていくか。もちろん,自由気ままに世界を探索するのもいい。*6

「けど、東×大山対談を参照すると、Jerry Chuの指摘した点とは別の仕方でその2つが似ていることが見えてくる」
東は、フロリダにあるディズニーワールドを観光した経験をもとに、ディズニーワールドには「訪問客の体験を徹頭徹尾コントロールしようという強い意志」*7があるという。

たとえば、ディズニーワールドのゲートとなるオーランド国際空港の1階には「ディズニー・マジカルエクスプレス」というカウンターがあり、そこで予約メールのコピーを見せてシャトルバスに乗ると小一時間でディズニーワールドに到着するらしい。加えて、コピーを見せた段階でホテルのチェックインもだいたい済んでしまうようで、これについて東は「多くの訪問客は空港でまっすぐカウンターに行き、そのままディズニーワールドに向かうので、彼らにとってオーランドという都市やフロリダの風景はないに等しい。自宅から空港へ、そしてテーマパークへと、完全にチューブでつながれているような感覚」になると評している*8

とにかく徹底してディズニー以外のものを見せないようになっている。似たようなことはTDRについても言われますが、あちらは場内での視覚効果に限った話ですよね。けれども、ディズニーワールドではそれはサービスにまで行き届いているし、そもそもアプローチから設計されている。外国人がTDRに行くとして、たとえば羽田に降りたとしたら、東京の街を通って公共機関を利用してアプローチするしかない(リムジンでも使えば別ですが)。完成度が違います。そしてバスに乗ると、車内では延々と、これから行くディズニーワールドがいかにすばらしいところなのかを説明するビデオが流される。これはまあ予想の範疇ですが、感嘆したのは帰りのバスです。帰国便は早朝で、朝五時くらいに部屋を出てバスに乗りました。行きと同じ退屈なプログラムを見せられるのかと思いきや、「さあ、次のディズニーに向けてプランを作ろう!」と(笑)。[中略]あらゆる時間、あらゆる空間を使って、ディズニーについてだけ考えるように仕掛けてくる。日本のテーマパークはそこまでしない。*9

 さらにそれを受けた大山の言葉も重要だ。

日本では、ここまでがうちの敷地、ここからはJRさん……という感じで住み分けてしまいますね。おそらく、ディズニーワールドを作っているようなひとたちは、この規模から見てもわかるとおり、空間の区切りにあまり意味を見出していない。代わりに来場者の時間が尺度になっているんだと思います。そのひとが家を出てからの時間を、どれだけディズニーが侵食できるか。それを突き詰めていくと、空港にカウンターを作るのも自然です。*10

「この「境界がない、すべてを侵食している」*11というのは、つまりは、虚構と現実の時間を同期させている(かのように錯覚させている)、あるいは虚構内に現実と同じ時間を流れさせていることかなと思ったんだけど、これはまさに井上が『シェンムー』を評する際に言っていたこと、そしてオープンワールドゲーム一般に流れる理想、理念だと思うんだよ」

オープンワールドゲームについて語られるとき、そこでは「自由度が高い」という言葉が多用される。
そしてその「自由度」をこしらえるために必要と目されるものが、「シームレスなビッグスケールのマップ」や「ノンリニアな物語体験」だ。
けれど、オープンワールドの功績としてもっとも重要なものは、ディズニーワールドが体現してみせたような、「虚構と現実の時間の錯覚的な同期」、より正確に言うならば、「虚構にもかかわらずわたしたちの現実と同じように時間が流れていること」だとわたしは思うのだ。

そもそも、いつだってゲーム画面には2つの階層が存在していた。
キャラクターやキャラクターが生きている世界それ自体が描かれる「虚構レイヤー」と、そのゲーム内レイヤーで起きていることをわたしたちプレイヤーが生きているこの現実に伝えるために要請されるインターフェースとしてのレイヤー、「境界レイヤー」だ。

たとえば『スーパーマリオブラザーズ』(1985)では、プレイヤーキャラクターであるマリオが緑色のキノコを取得するとリトライ回数が1回増加する。そしてキノコを取得したとき、画面上には「1UP」と表示されるわけだけど、この「1UP」は、わたしたちプレイヤーはそれを見ることができるが、プレイヤーキャラクターであるマリオにはそれは見えていないはずだ(キノコを食べて元気になったマリオの精神状態を比喩的に示した画像なのかもしれないけど、わたしたちはマリオの内面を推測することしかできない)。
つまり、いわゆる「UI(ユーザーインターフェース)素材」は当然のことながら「境界レイヤー」に属する。

UI以外では、たとえばマリオをはじめとする横スクロールアクションというジャンル自体の制約(というより、いわゆる「お約束」?)もそのひとつだろう。
マリオと同じ身体的健常者の場合、基本的には、わたしたちには一方向にしか歩けないという制約はないし、マリオもそのはずだ。
けれど、横スクロールアクションをプレイするユーザーの多くは、原則として「奥行きのない道を、左から右へと移動していく(しかも、マリオのように、過ぎ去った道に戻ることすらできないゲームは珍しくない)」というジャンルの特性=ジャンルが要請する制約を受け入れている。

あるいは、『ファイナルファンタジー』のようなランダムエンカウントであれ、『ファイナルファンタジーXIII』(2009)のようなシンボルエンカウントであれ、敵とのエンカウントの前後で画面が切り替わるゲームでは、その切り替わりの際に効果音や画面効果による演出(それはキャラクターが敵に遭遇した驚きの比喩かもしれないし、不意打ちを受けた痛みの比喩かもしれない)が入るけれど、多くの場合、演出それ自体はプレイヤーキャラクターには見えてなくて、わたしたちプレイヤーにだけ見えているはずだ。
TPSにおけるカメラの存在や、本編プレイ中の(ゲーム起動中ではない)ロード画面なども原則としてこの境界レイヤーに含まれる。

つまり、「虚構レイヤー」とは「キャラクターが――そして多くの場合は境界レイヤーによってプレイヤーにも――認知できるもの」であり、「境界レイヤー」とは「プレイヤーが認知できる――そして多くの場合はキャラクターは認知できない――もの」だ(この制約を意図的に破ることで新鮮な体験を与えてくれるゲームもある)。
ゲームで遊ぶとき、わたしたちはマジックミラーを使ってキャラクターたちの世界をのぞき見ている。
そして、先に挙げた「シームレスなビッグスケールのマップ」や「ノンリニアな物語体験」といったオープンワールドの特徴とは、つまるところ「境界レイヤーを可能な限り消した、あるいは消えているように見せかける」ことによって成り立っている。

たとえば、従来のRPGなどにおいては、マップ間の移動では画面を暗転させてロードを行っていたが、オープンワールドと呼ばれるゲームではその暗転効果は全くないか、著しく少なくなるようデザインされている(マップとロードのデザインと言い換えてもいいかもしれない)。

また、「見えない壁」をなるべく減らそうと努めるのもオープンワールドゲームの特徴だ。
ゲームが現実世界でない以上、キャラクターの可視・可動・可触範囲はあらかじめ規定されているため、「仮に現実世界だったとしたら見られる・移動できる・触れられるはずなのにゲーム内ではできない」ということは日常茶飯事だけれど、オープンワールドではこの「見えない壁」をいかになくすか、少なくするかがプレイヤーのゲームに対する評価にもつながってくる。

そして、これは空間的な話に限らない。
シームレスに移動できる1つのマップという空間が用意され、ロード画面がなくなったことで、虚構レイヤーの時間は中断されず、キャラクターたちがわたしたち人間と同じとは言わないまでも、それまでと比べたら段違いの連続した時間を生きることができるようになった。

さらに、シームレスなマップとは別の方法でも「見えない壁」は壊されていて、これが「ノンリニアな物語体験」を生む。
たとえば、基本的にゲームにはオープニングからエンディングまでの道程がクリエイターによって規定されているため、特定の順序に従ってプレイをしていかないとエンディングにはたどり着けない。
これが時間における「見えない壁」の一種だけど、オープンワールドでは――あくまでも従来のゲームに比べてという相対的なものに過ぎないとはいえ――この見えない壁を減らす努力がなされている。
いくつかのメインシナリオと大量のサブクエストが用意されていて、その順番にはある程度の制約があるとはいえ、物語体験のバリエーションは豊富にならざるを得ない。そもそもクエストを無視することだってできるから、ユーザーによって体験するできごとやそれらの順番には差異が生じやすく、キャラクターの物語に多様性を与える。

「そして、連続した時間の中で物語がノンリニアになることで、キャラクターたちの生がよりわたしたち人間と同じものであるかのように見えてくる。自由度とかシームレスなマップなんて言葉で意味されるものなんかじゃなくて、このことこそがオープンワールドのコアだと思う。だって、プライベートジェットのガルフストリームVで空を飛べるトム・クルーズと、生まれたばかりの赤ちゃんとでは、自由に行動できる範囲は全然違うのに、2人に流れている時間はとりあえずは同じなんだよ。これってすごいことだよ」
――むしろ時間は私たちが決してつかめないもので、決して逆らえないもの。自由の対極にある。
「うん。オープンワールドは、開かれた世界で遊ぶことだけじゃなくて、世界を開く=時間の流れに強制的に取り込まれることでもある」
――クリアしてみるまでなんとも言えないけど、とうとう「OPからEDまで全編1カット」を成し遂げた『GOD OF WAR』最新作は、その方向でのひとつの完成形かもしれないね。

時間はあと3分ぐらいかな?
会社が近づいてきたこともあって、視界にはちらほらと同じ会社に勤めている人の顔が見えるようになってきた。けれど会社には100人以上の人間がいて、そのほとんどの人と話したなんてなかったから、わたしはあいさつもせずに電話の向こうに声を届けることに集中した。

オープンワールドとは別の仕方でもこの「流れる時間」をきれいに表現しているJRPGがあるんだけれど、その話はまたの機会にするとして、ここでようやく海外ドラマの話を! といってももうすぐ会社に着いちゃうんだけど、ざっくり言うと、オープンワールドがそうしたように、海外ドラマもこの流れる時間の表現にこだわっているように見えるの」
もちろん、シリアル型であれ一話完結型であれ、TVドラマはそもそもその特性上、映画と比較して継続した時間の流れを描くことを得意としているけれど、たとえば海外ドラマの異様な盛り上がりの一助となった――とりわけ日本においては海外ドラマの代名詞とも言える――『24』(2001-2010、2014)は、まさに虚構レイヤーのおける時間とわたしたちを、つまり「ドラマ内で流れている時間」と「ドラマを観ているわたしたちの時間」を同期させることが売りだった。
作品内で流れている時間がわたしたちが生きているこの現実で流れている時間と同期しているため、「物語はいままさにそこで起こっているんですよ」という詐術が有効となる。
そのためにデジタル時計の数字=境界レイヤーにおけるそれを物語が展開しているまさにその画面の上に表示させることまでしてしまっている。境界レイヤーに余分な視覚的ノイズをあえて明示してでも、虚構と現実の時間を同期させたいんだ。

あるいは、スプリット・スクリーンによって複数の場所で起きていることを同一画面に収める演出が多用していることなどからも、その思想は伺える。
スプリット・スクリーンなんて、境界レイヤーにおける小道具の最たるものだ。いや、最たるものってのは言いすぎたけど、時計の数字はまだ虚構レイヤーでも描くことはできるけれど、スプリット・スクリーンを使えばどうしたってそのつど視聴者に「これは作り物である」ということを意識させてしまう。
けれど、そうしてまで、どの場所でも時間は等しく不可避的に流れ続けるという、わたしたちの現実のルールを表象したかったのだと思う。

いまとなっては古典的手法にすらなりつつあると言っても過言ではない「手ぶれ演出」が、一時期の映像作品におけるある種のリアリティを創出していたはずだけれども、『24』はそのような「多くの作品においては境界レイヤーにあるはずのカメラを虚構レイヤーのものであるかのように見せかける」という視覚的な詐術よりも、無慈悲で機械的な時間の流れを描くことで駆動するリアリティを優先させた。
――そうか、だからあの時計はデジタル時計じゃないといけなかったんだ。時間表記があいまいであるがゆえに主観的・内面的な時間感覚を呼び覚ましてしまうアナログ時計では、時間は絶えず流れ続けているという、わたしたちのあまりにも自明でドライで残酷な生の条件を表現できない。
「これはひょっとしたら、ダダ漏れ配信のリアリティに近いのかもしれない」

いや、さすがにそれは適当すぎるかな……?
でも、海外ドラマもオープンワールドダダ漏れ配信も、ゼロ年代にその存在感を放っていたという共通点はある。
まあいまからならば、その共通点よりもむしろ、Ustreamが終了し、オープンワールド疲れがささやかれているなか、海外ドラマだけはいまだに健闘している2010年代末における差異まで含めて見つめなくちゃいけないんだけど……。

3階建てのビルが見えてきた。
「ごめん、もうそろそろで会社着いちゃう。本当は『24』のことよりもむしろ、『HOMELAND』(2011-)におけるシーズンのまたぎ方から浮き上がってくる時間の流れをリチャード・リンクレイターRichard Linklater)の「ビフォア」シリーズを手がかりに読み解いてみたり、3日前の『ゲンロン8』サイン会配信動画の4時間半過ぎぐらいで展開されたクリフハンガーの議論を参考にしつつ『MR.ROBOT』や『Better Call Saul』を例に海外ドラマにおける伏線の活用法について話したりしたかった……というかむしろそっちこそが本題で、それこそがわたしたちと時間の関係についての話だし、偶然と伏線と物語と星座の話だし、それは映画とドラマの比較にもつながるかもしれないし、映画よりもドラマのほうがより窃視症的になってきているとか、もしかしたらハイデガーの現存在(Dasein)の話とか濱野智史の疑似同期の話との関連は?……とか、身体はいまここでしか存在できないのに精神は過去も未来も覗くことができるわけで、川上未映子の短編「アイスクリーム熱」(2011)で描かれる時間についても、ワールドビルディングについても、いやこれでも駆け足で半分くらいは話せたつもりなんだけど……そうだ! カップ焼きそばと『THIS IS US』の話もまだしてなかった! うぅ……またあとで!」
わたしはみさきの最後の相づちを最後まで聞いてから、電話を切った。

*1:訳文は日本語吹替版を引用

*2:井上明人黒瀬陽平+さやわか+東浩紀メディアミックスからパチンコへ――日本ゲーム盛衰史1991-2018」冒頭部分、東浩紀編『ゲンロンβ23』ゲンロン、2018年

*3:井上明人黒瀬陽平+さやわか+東浩紀、前掲書

*4:黒瀬陽平「「にわか海外ドラマファン」の美術批評家から、みなさんへ」ゲンロン、2018年5月31日閲覧。

*5:黒瀬陽平×渡邉大輔「日本映画と海外ドラマ、いま、どちらを見るべきなのか」ゲンロンカフェ、2017年2月28日開催。

*6:Jerry Chu「究極のオープンワールドを体験しよう」4Gamer.net、2018年5月31日閲覧。

*7:大山顕東浩紀『ショッピングモールから考える:ユートピア・バックヤード・未来都市』ゲンロン(ゲンロン叢書001)、Kindle位置No.1249-1250

*8:大山顕東浩紀、前掲書、Kindle位置No.1260-1262

*9:大山顕東浩紀、前掲書、Kindle位置No.1271-1283

*10:大山顕東浩紀、前掲書、Kindle位置No.1283-1287

*11:大山顕東浩紀、前掲書、Kindle位置No.1288

ep1_2018_2_9_『MR.ROBOT』における三分割法について

It’s happening.
タイラー・ダーデン(Tyler Durden) の意志を継ぐかのように革命への第一歩を踏み出したとき、エリオット・オルダーソン(Elliot Alderson) はその言葉を頭の中で幾度も唱えた。サム・エスメイル(Sam Esmail)のドラマ『MR. ROBOTパイロット版、「やあ、君(eps1.0_hellofriend.mov)」 におけるラストシークエンスでのことだ。
確かに、快調に猛進する資本主義と消費社会のもとでは、わたしたちの「本当の生」はまだ始まってなどいないと考える人は、少なくないのかもしれない。
森羅万象が記号となって差異のゲームを延々と続けるこのポストモダンにおいて、「この生はまぎれもなく自分自身が望んだものなのだ」と思える人は、驚くほど少ないのかもしれない。
だから、エリオットは疎外された魂が救済されるかもしれないという期待を感じて "It’s happening." と言ったのだし、シーズン1のクライマックスでは、デヴィッド・フィンチャー(David Fincher)の『Fight Club』でエンドロールを飾ったピクシーズPixies)の"Where is My Mind?"がピアノアレンジで流れ、シーズン2の第8話「後継者(eps2.6_succ3ss0r.p12)」では、エリオットの幼なじみであるアンジェラ・モス(Angela Moss)がTears For Fearsの "Everybody Wants to Rule the World" を歌った。

フィンチャーの『Fight Club』で、エドワード・ノートンが一番最初に殴ったのはブラッド・ピットの左耳よ」
少々長い手洗いから戻ってきた同居人――名前は仮に「みさき」とでもしておこう――は、ソファに座っているわたしの横に腰かけるなり、いちご味のカクテルを一口含んでからそう言った。
「わたし、口に出してた……?」
「それとなく、ね」
みさきは、わたしの眼前に猫パンチのような小振りのジャブを2回ほど叩き込んでから、続きの言葉を発した。
「私が左耳を殴ったら、革命の音が鳴るかもよ?」
「鼓膜が破れてせっかくの音がよく聞こえないかもね」
「もー、冗談だよー」
そう言うと、みさきは缶を無言でわたしのほうに差し出してきた。みさきの表情を伺うと、すでにわたしが見返していた『MR.ROBOT』の映像に視線を固定させていて、わたしの反応など気にしていない様子だった。というよりも、わたしが缶を絶対に受け取るということをわかっているのだ。みさきが口をつけたカクテルをわたしが受け取らないはずがない。
パイロット版だと、意外と隅に寄ってないね」
みさきの言葉がわたしの記憶に目隠しをした。
いや、むしろこれまでのわたしの記憶こそが色のついたフィルタに覆われていて、みさきはそれを取り払ってくれたのかもしれない。
「ごめん、止めてみてもいい?」
みさきは一言、「もちろん」。

例えば、Jerry Chuが指摘しているように、パリの北部にあるDONTNOD Entertainmentが開発したアドベンチャーゲームLife is Strange』では、プレイヤーキャラクターが三分割法に則った三人称視点で配置されている。そうすることで、モニタの向こうの世界をプレイヤーに存分に見せることができる。美的工夫の一種だ。
『MR.ROBOT』でも同じ作法に則っていると思われる構図が頻出するけれど、この作品におけるそれは少々セオリーから外れているんじゃないかと思うくらい被写体が画面の端に追いやられているから、わたしは、それもまた彼らの疎外感を演出するための映像的比喩だと思っていた。
みさきの言葉が正しかったとして、その読み自体を退けるつもりはない。けれど、もし本当に正しかったとしたら、その意味合いは少し変わってくるはずだという声が浮かんでくる。「なるほど、彼らは疎外感を感じていることには異論はない。しかし何から?」といった具合に。
「ほんとだ……」
いくつかのエピソードを早送りで確認し終えたわたしは、まぬけなつぶやきを漏らした。
みさきの言うとおり、パイロット版においては、この作品に特徴的なあの極端な三分割法は採用されていないと言い切ってもいいレベルだった。続く第2話でようやくその兆候が現れ、以降、その度合が一定のレベルに達したところで様式化されているように見受けられる。

落ち着いて整理しよう。
まず、『MR.ROBOT』とはなにか。
それは、エリオットが世界を救おうとする話だ。
エリオットは社交不安障害(Social anxiety disorder)を抱えながらニューヨークのサイバーセキュリティ会社「オールセーフ(Allsafe)」に勤めている青年で、プライベートではハッカーとして活動している。同僚や知人のSNSを覗くだけのこともあれば、児童ポルノの巣窟を暴き出して警察に通報することもある。
ある日、オールセーフがハッキングに遭い、エリオットは見事その防衛に成功する。しかし、それをきっかけとして、オールセーフ襲撃の犯人である中年男性「Mr.Robot」から、彼の率いるハッカーグループ「f・ソサエティ(fsociety)」に参加し、巨大コングロマリット「Eコープ(E Corp)」――企業ロゴはあの「エンロンEnron)」のそれをほぼそのままと言っていいレベルでデザインされており、エリオットは「悪魔コープ(Evil Corp)」と呼び人々を苦しめる元凶だとでもいうふうに憎んでいる――の金融データをクラックすることで市民の負債を帳消しにする計画を持ちかけられる。
タイラーは実体のない記号に対して肉体的・物質的側面から対抗したが、その失敗(?)の延長線上にいるエリオットたちは、実体がないのならばクラックすればよいと考えたんだ。
パイロット版のラストではその手始めに、Mr.Robotの指示に従ったエリオットの暗躍によりEコープのCTO「テリー・コルビー(Terry Colby)」が逮捕され、それが革命の序曲="It’s happening."となる。
そして、本作の極端な三分割法はこれ以降に登場している。

どういうことか? シーズン2まで観ればその意味はよりはっきりとわかる。
シーズン1のクライマックスで、エリオットたちはついにEコープの金融データをクラッシュさせる。けれど、シーズン2ではその尻拭いに追われることになる。雑に言えば、計画で幸せになった人もいるが、不幸せになった人も大勢いたのだ。
つまり、本作における極端な三分割法は、エリオットがfxxxしようとした社会からの疎外感ではなく、革命の代償としてどんどん乖離していってしまったエリオットたちとそれまでの日常との距離を表現していたんだ。

そこまで考えたところでいてもたってもいられなくなり、わたしはこの明晰夢の世界から抜け出て、現実世界でも映像を確認してみることにした。